「変わり続ける人生をどう生きるか」2018年、キューバで聞いた

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人生の大切な選択を、あなたはどう乗り切ってきただろうか。

ときに熟考し、ときには若さと勢いだけで乗り切り、またときには不本意ながら、であったかもしれない。

 

選んだことに後悔はなくても、ふとこう思う瞬間はないだろうか。

 

もし、違う人生を歩んでいたなら。

 

「もし、結婚していなかったら」

「もし、子どもがいなかったなら」

 

「あのプロポーズを、受けていたなら」

「あのとき、転職していたら」

 

「夢をあきらめなかったら」

「留学していたら」

「最後にひと目、会いに行っていたら」・・・。

 

長く生きれば生きるほど、「選ばなかった人生」が蓄積されていく。

 

しかし、安全で、ごはんがおいしくて、言葉が通じるこの国に生まれて、こう思うことは、あまりないかもしれない。

 

「もしも、日本に生まれていなかったら」

 

もしも、外国で生活できたなら……。

 

今回私は、そんな思いを抱えた多くの人が住む国、キューバを訪ねた。

 

4度目のキューバ旅。

初めて訪れた8年前とは、街も大きく変わった。そこで友人たちに「キューバを出た人、出なかった人」の話を聞いた。

 

目の前に、今までとはまったく違う選択肢があるとして。

そしてそれは、人生をかけて選ばなければいけないものだとして。

 

あなたは、決断できるだろうか。

 

あるスペイン語教師の息子の場合

 

この写真は、ハバナにあるギャラリー、ファブリカ・デ・アルテ・クバーノ(Fábrica de Arte Cubano)に展示されている現代アートだ。

 

写っているのは、「キューバの亡命者ストーリー」として典型的な、カリブ海をイカダで渡って、アメリカに亡命しようとする人々。

 

一緒にいたスペイン語教師(キューバ人)に「これは亡命でしょ?」と尋ねると、こんな答えが帰ってきた。

 

「アメリカには、合法的にも行けるのよ。亡命したとしても、生活は保証されるし。

それでも、飛行機に乗るお金がない人は、イカダでマイアミに向かって、たくさん命を落としたの」

 

 

2010年に初めてキューバを訪れてから、今回が4度目の訪問。

来るたびに、新しい友人ができ、そしてその半分以上が、すでにキューバにはいない。

より豊かな生活を求めて、アメリカやメキシコに渡ってしまったのだ。

一緒にこの展示を見ているスペイン語教師の息子も、アメリカに渡ったまま、帰ってこない。

 

「彼は学校の成績もよくて、優秀だった。でもアメリカに行って、皿洗いの仕事をしていたのよ。あんなに賢い子なのに。

去年、息子はガールフレンドと一緒にキューバに来ようとしたけれど、できなかった。キューバのパスポートが問題だったの。

ガールフレンドはベネズエラ人だったから、彼女だけ来て、一緒に食事したわ」

 

スペイン語教師である彼女自身も、若い頃はフランスやアフリカ、カナダで仕事をしたことがあるという。

 

「外国は、旅行するにはすてきなところだった。でも、私にはキューバの生活が合ってる。

もし、キューバ人がもっと、簡単に海外と行き来できたなら、息子もずっとアメリカにいようとは思わないでしょう。

でも、行くか行かないか、その2つしか選べない。だから、今もあっちにいるのよ

 

 

有名ミュージシャンの場合

キューバで海外移住しやすいのは、野球などのスポーツ選手と、ミュージシャンだ。

 

キューバでヒットした映画「ハバナ・ステーション」では、対外的には貧富の差がないと言われているキューバで、貧しい地区にすむ少年と世界的なミュージシャンを親にもつ裕福な少年との交流が描かれている。(そのきっかけになるのが、裕福な少年が親に買ってもらった「プレイステーション」であることから、このタイトルがついている)

 

私が2010年にハバナで出会った彼は、1年の半分は海外ツアーに出ている、キューバ在住のミュージシャンだった。

 

演奏はもちろん、人柄もすばらしく、家族ぐるみでお付き合いをさせてもらっていた。

今回の訪問でも会えることを楽しみにしていて、到着した日にさっそく電話したのだが、出たのは彼の親戚だった。

 

「去年、家族みんなでアメリカに移住したよ」

 

そう言われて、「彼もか……」と少し、寂しい気持ちになった。

ふつうに考えたら、海外での評価も高い彼が、今までキューバを拠点にしていたことのほうが不思議である。

 

キューバでの演奏活動にはギャラが出ないこともあるし、出たとしても海外の何分の、下手したら数十分の1。

お金の問題だけじゃなく、じゅうぶんな音楽設備や、キューバ以外の世界的なプレーヤーたちとの共演を考えても。

 

彼と最後に話したのは、名古屋ブルーノートの楽屋だった。

 

「ニュースでは、キューバとアメリカの国交が復活して、ずいぶん変わったって言ってるけど……実際はどうなの?」

 

そう聞いた私に、彼はこう答えた。

 

「変わっている、ように見えているだけだよ。実質、何も変わってない」

 

その月に、彼は家族でアメリカへと移住した。

 

一方で、同じように海外に拠点を移せるだけの実力がありながら、キューバに残ることを選んだミュージシャンもいる。

 

有名ミュージシャンの場合・その2

 

「ハバナはこの数年で、ずいぶん変わっただろ?」

5年ぶりに訪ねた私を車で送ってくれながら、彼はそう言った。

 

「あそこにも新しいレストランができているし、ほら、あそこにもバーができてる」

ハバナの大通りには、確かに真新しい看板が並んでいる。

 

アメリカとの国交回復前後から、というかフィデル・カストロから弟のラウル・カストロに政権が移ってから、キューバの自営業に対する制限が緩和された。

そのため、ハバナは今、カフェやレストランの開店ラッシュだ。

 

8年前は、小ぎれいな店は外国人専用で、ほとんど看板も出ておらず、自力で探すしかなかった。

しかし今は、地元の人々も利用できるバーやレストランが、夜に控えめなネオンを光らせている。(停電が起こりやすいキューバでは、首都ハバナであっても夜はかなりの暗闇に包まれる)

 

「昔は恋人たちの場所だったマレコン(海岸通り)も、今やWi-fiスポットに変わっているよ」

 

 

この数年、ハバナはいろんな面で大きく変わった。街のあちこちにあるWi-fiスポットもそのひとつ。

前は、ホテルの遅いインターネットに1時間7ドルも払わなければいけなかったのに、今は高速Wi-fiが1時間1ドルで利用できる。

 

ハバナを拠点に活動するミュージシャンの彼の人生も、ここ数年で大きな変化があった。

20年近く在籍したある有名なバンドを脱退して、フリーになったのだ。

そのバンドは、かつて日本にもツアーで来たことがあり、キューバで名前を知らない人はいないと思う。(ブエナビスタではない)

 

バンドの成長とともに、彼の名も、キューバの同業者で知らない人はいなくなった。何度も海外ツアーに出ていて、コネクションもあるという点では、先ほどのアメリカ移住した彼と同じである。

 

私の友人がほとんどキューバを出た中、なぜ彼はまだここにいるのか、聞いてみた。

 

「僕は、海外に住む気はないんだ。

 

確かに、資本主義の世界で働けば、稼げるだろう。先進国に住めば、キューバで感じるような生活の不便さもないしね。

でも僕は、例えば日本に行ったとき、物価がどれだけ高いかを見た。だからこそ、キューバ人の何十倍も給料が支払われてるんだなって思ったよ。

 

ほかの国でも同じだ。単純に、海外に住めば豊かになれる、とは思えない。

 

ここには僕の家族がいて、友人がいて、好きな音楽ができて、それでじゅうぶん楽しく暮らせている。僕なりの自由が、この国にはあると思う。

 

海外移住した友人たちの生き方を批判するわけじゃない。

それは彼らの選択であり、彼らの人生だから。

 

でも僕は、何者の奴隷にもなりたくないと思っている。

長年働いたバンドを抜けて、仕事も生活も変わったし、先のことはわからない。この国もどんどん変わっていくだろう。

 

でも、環境とは常に変化していくものだから。

ずっと同じところに留まってはいられないんだよ。

 

人生は変わり続ける。

だから、そのときどきの環境の中で、自由に生きていきたいんだ」

 

元外交官の話

 

今回、キューバの元外交官のご夫婦と話をする機会があった。

「キューバについて聞きたい」と言うと、穏やかにこう言った。

 

「まず前提として、日本とキューバは、歴史も文化も経済状態も、全然違う。

だから、1度に理解することは無理だし、しようとしなくていい。

 

キューバは移民の国で、多くの文化が混ざっているからね。そして常に変わり続けている。

 

だから、その変化を目で見ながら、少しずつ私たちの対話を積み重ねて、徐々に理解を深めていこう。今回だけで話して終わり、というわけじゃないんだから」

 

彼らは、革命前から現代までのキューバの歴史について、じっくり丁寧に教えてくれた。その内容に関しては、詳しく解説している本やサイトが多くあるので、ここでは割愛する。

 

そういった長く複雑な歴史を経て、キューバは今年、次期議長を決めるための選挙を行った。現在キューバの政権トップにいるラウル・カストロがまもなく引退し、新しい人選が行われるのだ。

 

「新しい議長になっても、国の社会主義路線は変わらない?」

 

と、私は聞いた。フィデルが亡くなった直後のブログにも書いたが、急速な資本主義化はしてほしくないと思っているのだ。

 

「そうだね。社会主義路線は変わらないけれど、大事なのは社会主義・資本主義関係く、目の前の複雑な問題をどう解決していくかだ。

 

キューバは今、新しいビジネスが増えているけれど、みんな自分の生活のためにやっていて、政治や国の発展を考えているわけではない。

 

キューバの経済は、オバマ政権のときに少し良くなったけれど、トランプ政権になってまた後退した。

変わり続ける環境の中で、変化を受け入れ、その中でどう生き残るかを常に考えなくちゃいけない」

 

ぱっと見、何も変わっていないようで、しかしながら、確実に世界は変化を続けている。

知らないふりをしていても、個々の人生を確実に動かしていく、国、政治、経済。

 

それを見ずに同じ毎日をくり返して生きるか、それとも「世界は変化するもの」と、受け入れて生きていくか。

どう生きるか。

 

どう生きたいか。

 

再び、スペイン語教師の話

 

彼女とギャラリーのイスに腰掛けて、小一時間、この映像作品を見ていた。

大小さまざまなモニターに、人々が映っている。

始めは止まっているが、よく見ているとやがて一人が動き出す。

 

牧師は服を脱ぎ、女性は立ち上がって踊り、男たちは手を握り合う。

無限に湧いてくるイメージに目を奪われ、時間を忘れて眺めていた。

 

 

ひとりでイスに座って見ていると、欧米系の男性に、英語で話しかけられた。

 

「この作品は、何が言いたいの? 僕にはさっぱりわからないんだけど」

 

私にも、イメージが膨大すぎて単純に「わかる」とは言えなかった。

でも、「わからない」とも言いたくなくて、曖昧な答え方をした。

 

彼が去ったあと、立って見ていたスペイン語教師が戻ってきた。

 

「この作品、とっても面白いわね。

それぞれが、自分なりの自由を表現している。

牧師の彼は、宗教へのアンチテーゼだし、あの女性は性からの解放。

あっちは、ホモセクシュアルについてね」

 

そうか、テーマは「自由」だったのだ。

 

この国の人々には、まだ容易に手に入らない、自由。

「共産主義」「独裁政権」「貧乏な国」など、世界からこれでもかと型に嵌められて見られることからの、脱却。

人間にとっての自由とは、お金か、モノか、インターネットかを、常に考えさせられるこの国。

 

 

私や、私に質問したさっきの欧米人にとって「自由」とはもはやありふれた、空気のような存在で、だからこそ気付かなかったのかもしれない。

 

ちなみに、ここで私が一番気になった作品は、これ。

 

Enrique Rottenbergというイスラエルの写真家の、「From the top」という作品。

彼女に「自由」が身近なように、私には今、この作品が「刺さる」テーマなのだろう。

 

今回のキューバ旅で学んだこと

 

それは、変化を恐れず、受け入れること。

すぐに理解しようと焦らず、変化を観察し、考え、ときに対話すること。

自分に見えないものが、他人に見えているということ。

 

そして、こうやってブログに書いて改めて思うのは、私の見えているものも、それに対する考えも、まだまだ稚拙だということ。

でも、それでいいのだということ。

 

私もまだ、変化の途上だから。

これからも変わりゆく世界を見て、それにそって生きていく。

だからこそ、旅を続ける。

 

 

オマケ

 

冒頭で紹介した、イカダ写真のアートの前でセルフィーする女の子。

 

かわいい。

 

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