「社会学ってなに?『社会を学ぶ』って、ざっくりしすぎてない?」くらいの認識だった私が、社会学の入門書「ふれる社会学」の刊行イベント(通称:ふれしゃかフェス)に行ってきました。
実は最近までメキシコにいたため、本はまだ未読。しかも社会学についての知識ゼロ。それでもイベントはめちゃくちゃ面白く、「私が生活の中で日々感じているモヤモヤを研究するのが社会学なんだ!」とがぜん興味が出てきました。
そんな目からウロコがぽろぽろ落ちたイベント内容をレポートします!
この本を知ったきっかけは、以前「よい移民」トークイベントで『ハーフ』であることの実体験を語っていたケイン樹里安さん。
「ふれる社会学」は、社会学を研究されているケインさんが編者の1人となり「誰にでもわかりやすい社会学の入門書を」と作られました。
今回のイベント登壇者は編者のケインさん、上原健太郎さん、そして「よい移民」の翻訳者であり今回の執筆者でもある栢木(かやのき)清吾さんと、同じく執筆者の八木寛之さんです。
トークは、ジュンク堂書店難波店の店長・福嶋さんの「一体どこまでが社会学の範囲なのでしょう」という、私も感じていた疑問からスタート。以下、私が特に印象に残った部分を抜粋してレポートします。
ケインさん:夢中になっているもの、毎日やらないといけないこと、スマホなど、身近なことを『社会』と呼ぶことができる。身の回りにあるものが社会に晒されている。自分たちを取り巻いているものに触れてみるのが社会学なのかなと思う。
上原さん:「ふれる社会学」は、大学生向けの教科書という体裁を取っているが、もっと広い層に向けた社会学の入門書として作った。冒頭は「スマホ」「就活」「観光」などわかりやすく身近なテーマを扱い、読み進めるうちに社会学の理論的な話に誘っていくよう工夫している。
後半は「LGBT」「外国につながる子ども」「ハーフ」「差別感情」といったテーマから、最後に100年前の社会学に関する話を入れた。本来は教科書の最初に来る話を最後に持ってきた。
ケインさん:高校の図書室に置いてもらったり、企業の人にも読んでもらいたい。このイベントも、販売促進のために数か月やって終わりではなく、「ふれしゃかフェス」と称して長く続けていくつもり。イベントを通して、色んな社会的立場の人と対話することが大事だと思っている。
誰もが社会の仕組みに巻き込まれている
栢木さん:今回、僕は「差別感情にふれる」という章を書いた。書く時に気をつけたのは、できるだけ「概念を使わず書く」こと。実際に学生に教える時に使う平易な言葉と、自分の筋立てだけでどれだけ読者を説得できるか。
専門家にわかる言葉で書けば業界では通じるけれど、自分の話として感じられるかどうかが大事なので、社会学について何も知らない人に向けて書いた。あと、「差別はやめましょう」といった説教臭い話になると、読んだ人が距離を置いてしまうのでそこも意識した。
大学で教えている実体験として、留学から帰国した学生から「海外で『ニーハオ』と言われて嫌だった」とよく聞く。でもなぜそれが嫌だったのか、そういう感情はどこから湧いてくるのか。「中国人と一緒にされて嫌だった」なら、それこそが差別。
自己反省を強いているわけではないが、外国人と違うことで自己肯定感を得てしまう部分は多くの人の中にある。それは差別に遭っている人だけの問題ではなく、社会の全員が、程度の差こそあれ共有している構造の問題。本には「自身の差別感情に1回触れ直してみよう」ということを書いた。
ケインさん:人は普段、わかった振りをして生きている。「差別はダメだよね~」とか。しかし、そう言っている自分はどうか?といったん考える必要がある。「差別はダメだけど、自分とは関係のないもの」と境界線を引いてしまっている。「私は差別主義者ではない」と安全圏に行き、関係ない人達が差別をしてるよね、と。
栢木さんの文体は説教臭くない。自分たちも差別をしてしまっている瞬間があり、それは思い込みや偏見などの仕組みであると。誰もが社会の仕組みに巻き込まれているのに、「ほかの誰かの話だ」と境界線を引いている。
栢木さん:今日のイベントテーマは「境界にふれる」。スポットライトの当たらない、忘れ去られた空間の向こうにもまた違う世界がある。見る角度によってそこが中心になったり端になったりしていく。ある視点からは見えていなかった、色んな層の文化の重なり合いがあることがテーマかなと。
ケインさん:僕は日本生まれだが、大阪にやって来たのは小学生の頃。その時、自分もテレビなどで見た「ザ・大阪」のイメージを持っていた。八木さんに観光の話を書いてもらったのはその経験から。
地域のイメージはどういう風に作られているのか興味があった。最近、雑誌で「ディープな大阪特集」をよく見るが一体誰が「ディープな場所」を決めてるのか、とか。
実際、大阪に住む人々も「大阪には作られたイメージがあり、そうじゃない大阪があることも知ってるけど、まあそんなもんだよね」と境界を引いている。みんな生活の中で何かしらの境界を引きながら、それに常に触れ続けている状態。「ふれる社会学」やふれしゃかフェスを通して色んな立場の人と対話し、自分も社会に触れていけたらと思っている。
いつから「社会人」になるのか
栢木さん:大学で働いていて、「社会人になったら~」という言葉をよく聞く。果たして、就職したらその日から「社会人」というものになるのか。就職する前から、アルバイトしていたらすでに「労働」という仕組みに組み込まれている。しかし本人が社会に組み込まれてない感じがしているなら、それが罠だと思う。すでに消費税も払っていて、重要な社会の構成員になっているのに。
上原さん:僕は「ふれる社会学」の中で就活や労働について書いている。3月末に学生生活が終わるといきなり「社会人」として扱われることには違和感がある。栢木さんが言ったように、卒業前からすでに社会人かもしれないし、本当はいつから就職してもいいはず。
僕は沖縄出身で、沖縄は新卒採用の仕組みがまだ定着していない。色んな理由はあるが、若い人たちは新卒にあまり強く縛られてない。僕も20代は色々な仕事を経験し、30過ぎて落ち着いていくのが当たり前だと思っていた。それもひとつの生き方。色んな生き方のチャンネルがあっていいはずなのに、それが少ないという問題意識がある。
学生たちは就活の時期を迎えると、髪も服も靴も真っ黒になっていく。就活が楽しい人もいれば、プレッシャーに耐えきれない人、うつや自殺の問題もある。ゲームがいったん走り出すと、あなたは誰?と必ず問われアピールしなければならない。「お前は何者だ?」という圧力が大学生にものすごくかかる。そこから自分探しが始まるが、本当の自分探しをしているあなたも本当の自分でしょ、と。就活の仕組みは学生生活をものすごく拘束している。
だが、自分も仕組みに疑問を持ちつつも大学教員として組み込まれている。学生の内定が決まったら否定できないし、嬉しいと思う。一方で、その仕組みからはじき出された人のことも考えたいと思い書いた。
栢木さん:「外国につながる子どもにふれる」の章に書かれているが、日本の学校教育システムは「一斉共同体主義」を前提にして大学まで出来ている。だが本当は新卒採用のゲームに乗らなくても、他のゲームもあるし、別の角度から参加する選択もある。「社会への参画の仕方はひとつではない」という考えも提供したい。
「あなたのせいではない」と伝えたい
ケインさん:よく「文系の学問は役に立たない」と言われるが、人文社会科学の役割のひとつが、「それはあなたのせいではない」とメッセージを放つことだと思っている。今の世の中は自己責任の考え方が強い。でも、今日着ている服は本当に自分で選んだのか?ファッション業界が決めたトレンドの服を、自分で選んだつもりで着せられているのかもしれない。
大学院に行く前に1度就活したことがあるが、大学ではよさこいしかやってなかったからその話しかできなかった。ある人事の人に「何でみんなよさこいやってるの?」と言われた。よさこいアピールする学生がすごく多いと。
自分が教えている大学の1年生は、ラクロスサークルに入っている理由を「マイナースポーツなので就活に有利と聞いたから」と話していた。自分の趣味、留学、ボランティアですら就活の資源として見ている。それはどうなのか。
そうやって自己分析して就活に落ちていく。しかし、自分のプレゼンをさせたのは誰なのか。本当に望んで就活をしているのか。他の道もあったはず。自分がいま落ち込んでいるのは、本当に自分のせいなのかと考えてみてほしい。
八木さん:何でも自分のせいと考えてしまいがち。今は自分探しのブームが落ち着いてきたように見えるが、本当は自分探しが当たり前になって、あえて語られなくなっただけではないか。
栢木さん:加えて「社会が悪い」と言いづらい空気になっている。本当は「社会が悪い」をスタートにして具体的に何が悪いかを考え、改善していかなければならない。「社会が悪い」と言えないと、現状肯定しかできなくなる。
ヨーロッパではよく「移民にとって生きやすい社会は市民にとって生きやすい社会」と言う。誰か特定の立場の人の問題に見えて、実は社会全体の問題だと。そういうことを言うきっかけになったことが、人文社会科学の有用性かなと思う。
しんどくなったら社会学を思い出して
上原さん:一方で、今ある社会を楽しんでいる人、例えばよく話題になる「女らしさ」や「男らしさ」を楽しんでいる人が僕たちの言葉を聞くと、中には「否定された」と捉える人もいると思う。授業をしていても、学生からそういう意見がよく出る。
ケインさん:僕は自分の授業でよく言うのが、「しんどくなったら思い出して」。「男らしさ」や「女らしさ」、就活でいう「勝ち組」を楽しんでられるうちはいいのかもしれない。だが、それが実感のないまま自分の首を閉めていることがある。仕事が忙しくてしんどいけれど、「休まないことが男らしさ」と思って働き続けているうちに過労死してしまったり。
八木さん:今、多くの地域で「アニメで町おこしをしよう」という動きがある。アニメの舞台となったところに人が来て、商工会の人が町おこしに動いている。
ネオリベラリズム(※)は町おこしと親和性が高い。過去の町おこしは税金を投入してやってきたが、自分たちの知恵でやっていこうという流れに変わった。いい話でもあるが、自己責任に通じる部分もある。そうじゃない町づくりはどういうのがあるかと、社会学で考えたりしている。
※ネオリベラリズム…自己責任を基本に小さな政府を推進し、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策の体系。(中略)新自由主義に基づく諸政策を実行した主な政治家にはロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、中曽根康弘、小泉純一郎などがいる。(新自由主義 – Wikipediaより引用)
栢木さん:多くのことは、ポジティブな側面だけやネガティブな側面だけではない。表裏一体だと思う。
家庭内で起こるDVも、両者に愛があるから問題。他人同士の暴力事件より事態が長続きしてしまうのは、そこにポジティブな関係もあるから。簡単に区分けできない。男女の家事分担も、愛情だけの話で白黒つけられない。両方の観点を持ってないと、思っていた展開にならなかった場合に対応できなくなる。
例えば、一家の父親が突然「実は女性になりたい」と言ったとする。その時、妻や子どもが唯一の家族像しか持っていなかったら、父親は言い出せないし更に苦しめることになる。違う観点を持つことは、大事な人を守るためのセフティネットとしてもいいのかなと思う。
ケインさん:何かに無我夢中になっているときにも、社会学にふれて欲しい。自分がのめり込んで「こうだ」と思い込んでると色んなことに対応できない。でも、実際はそういうことばっかり起こる。
「~らしさ」と自分自身がそぐわなくなったとき、身近な人であればあるほど「~らしくないよね」などと言って苦しめてしまう。社会的に作り込まれてきた見えない「らしさ」の罠がある。当たり前すぎて気づかない。でも、「そこには実はこういう仕組みがありますよ」と知らせるのが社会学。半歩ずらした位置から見る。
1歩じゃなくて半歩。その距離ぐらいしか自分たちは動けない。その半歩が大事。半歩ずれた社会がすぐそばに転がっていることをいったん知っておくことが大切なんです。
栢木さん:例えば、人は実際に恋愛する前に、ドラマや漫画で恋愛を学んでいく。何を見て育ったかによって、世代などでも恋愛観が変わる。そんな風に「自分の中に埋め込まれている社会的なものと相手のものが違う」と気づくと、自分と相手が人としてずれているのではなく、お互いの背景がずれているのだと気づくことができる。
ケインさん:その人が選んでずれているのではなく、年代や地域など色んな要素で「ずらされている」。
僕は社会学の授業をするとき、この本の冒頭と同じくスマホをテーマに始める。学生にスマホを使って同じキーワードで検索してもらうと、出てくる結果がみんな違う。個人の好みに検索結果がカスタマイズされているから、同じ景色を見てるようで一人ひとり違う景色を見ている。色眼鏡って色がついてないから怖い。
テレビは消すことができるが、スマホは大事な個人情報が入っているから捨てられない、だから怖い。その捨てられないメディアに入ってる情報が、自分の色眼鏡にフィットしたものになっている。
だからこそふれしゃかフェスを続けて、お互いの半歩ずれぐあいを確認することが重要だと思っている。「自分はずれてるから中立にならなきゃ!」ではなく、ずれてることを確認し合うことが必要。
栢木さん:メディア論は、最初は人々を同期していくことを論点としていた。新聞などの活字でみんな同じ情報を共有するようになり、同じ言語で同じものを見ている人達と連携する。だが一方で、今はメディアがどう個別化していくかのモードにも変わってきている。
ケインさん:僕は最近「ティックトック」(※10~20代に人気の動画投稿アプリ)をやってるんですけど(笑)。その中で、音楽に合わせて質問に「イエス・ノー」で答えていくことで自己紹介するっていう企画がある。
見ていると、目鼻立ちの整っている投稿者が「ハーフですか」という質問に自分で「イエス・ノー」と答えているものがたくさんある。若い人に偏見が少ないかというとそうでもない。ハーフと聞いた時に思い浮かべるのが欧米の顔、という偏見がテレビで共有され、若者にも引き継がれている。
「ティックトック」という楽しいツールでも差別や偏見が差し込まれ、繰り返されていく。その中で感じるモヤモヤにどう名前をつけていくか。「レイシズム」ほど強い言葉でなくても、名前をつけることが大事だなと。そういうことを、カジュアルに伝えていく手立てがもう少し増えればなあと思う。
ふれしゃかフェスを終えて
登壇者のみなさんの熱いトークは2時間におよび、気づけば立ち見が出る大盛況でした。
質疑応答のコーナーでは「私はケインさんと同じ『ハーフ』の当事者だが、たまに半歩どころか大きくずれた偏見を持つ人に出会い、しんどくなる。どうすればいいか」という質問や、「私は20歳を超えているが、大学の先生には子ども扱いもされる。大人と子どもの境界をあえてつけるならどこか。こう聞くと大人は『あなたが大人と思ったら大人』と言うがそれは逃げだと思う」など、考えさせられる質問が飛び交いました。
私も今回のトークを聞きながら、自分が社会に組み込まれていると自覚した瞬間や、今まさに感じている違和感の原因など色んな考えがかけめぐり、「こういうことを考える作業が、まさに社会学にふれることなんだ」と実感しました。
今後も全国で続いていく「ふれしゃかフェス」。12月は東京と鳥取での開催が、そして年明けには再び大阪での開催が決まっているそうです。
今後の詳しいスケジュールはケインさんのnoteもしくはTwitterをチェックしてください!
そして熱い登壇者のみなさんが執筆した社会学の入門書「ふれる社会学」、ぜひ目次だけでも見てみてください。それぞれの章が分かりやすい言葉で簡潔にまとめられているので、興味あるテーマから少しずつ読んでいくのもアリだと思います。
また、栢木さんが翻訳したイギリスの21人の移民の物語、「よい移民」もおすすめです。
「ふれる社会学」も「よい移民」も、今後も関連イベントが続くそうですので、私も出来る限り参加してふれていこうと思います!