子どものころ、人より自分をかしこく見せることに、一生懸命だった。
見た目も運動神経も性格もイマイチな私が、他人に、とくに大人に受け入れられるには「頭の良さ」をアピールするしか、思い浮かばなかったのだ。
本を読んで仕入れた「誰かのことば」を、さも自分の考えかのように、ペラペラと語るのが得意な子ども。
親の期待に応える、頭の回転が早い子どもを演じるのは、気持ちよかった。
20代になると、今度は社会の期待に応えるべく、自己啓発本を読み漁った。
たくさんの知識や、誰かえらい人の考えを取り入れて生きていけば、立派な人間になれると信じて。
友人から悩み相談をされるたび、自分のなかの「他人のことば」リストの中から、それらしい言葉を引き出して語った。
さも私の考えかのように。
そうしてどんどん、「完璧な自分」が達成するべき、理想の夢リストが積み上がっていく。
そのためにやらなければいけない、タスクリストも。
当然、ひずみは生まれた。
高いところに自分を置いて、でもそこに届かなくて、落ち込むことのくり返し。
突然、なにもかも嫌になる自分を責めた。
私はだめな人間だから、もっともっと、成功者の教えを取り込まなければ。
他人のことばを食べて、食べて、パンパンになっていく。
20代の私は、ぐるぐる巻きのお布団に包まれて、同じ場所を行ったり来たりと転がっていた。
布団を巻けば巻くほど、自分を高める呪文が積み上がっていく。
かしこいふりが上手になる私を、まわりの人は褒めてくれた。
「すごいね」
「しっかり考えてるね」
「大人だね」
そんな他人のことばを、もっとぐるぐる体に巻いて、ぬくぬくと肥えていく。
でも、布団の中は居心地がいいけれど、手足を伸ばせない違和感も感じていた。
本当の私は、知ったかぶりが得意で、他人の上に立つことでしか自分を保てず、狭い世界でより下の人間を探し、右往左往していた。
せめて精神が安定した人間になりたいと、頭で感情を処理しては、ただただ心を麻痺させていく日々。
そんなある日、演劇のワークショップで、言われた言葉がある。
当時イッセー尾形さんの演出家だった森田さんのワークショップで、その言葉は森田さんの奥さんからだった。
私の顔をニコニコと見ながら、彼女は言った。
「人間って、空っぽの生き物なのよ。だから、早く自分は空っぽだって認めちゃったほうが、楽だよ」
足りない自分を、埋めて埋めて埋め尽くしたいともがいていた私には、よくわからなかった。
仮に、人間は空っぽだとしても、そこに生きる意味を見出さなければ、人生は無駄ではないだろうか。
世の中になにも残さず死んで行くのは、とても怖いことではないか。
そんな思いに押されながら、いくつかの夢に挫折したり、チャレンジする前にやめたりしながら、30歳になってやっと、メキシコに移住した。
日本にいても、どんどん息が詰まるだけだった私は、海外に行くと息ができた。
何のしがらみもない国では、目に見えない同調圧力から解放されて、体が軽くなる。
だけどそれは、今までぬくぬくと包まれていたお布団がはがされ、心がむき出しになることでもあった。
2年を過ごすうちに、今度はメキシコの狭い日本人社会に詰め込まれて、心がぎゅうぎゅうになっていった。
今まで人の上に立つことで、なんとか自分を保っていたのに、マウント合戦に負け、ヒエラルキーの一番下になってしまった。
薄く存在を無視され、誰からも重宝されず、陰で噂される日々。
どうにかして平静を保とうと、もがいた。
聴こえてくるのは、大好きだった呪文たち。
「逆境こそチャンス」
「ネガティブになるのはヒマだから。つらい時ほど忙しくするべき」
「上手に気分転換して、メンタルコントロールしよう」
過去に、友人に語った正論が、そのまま私を追い詰める。
できない。できない。できない。
正しく生きることが、もうできない。
ここに私の味方はいない。
この国で私が死んでも、ただ存在が消えるだけ。
生まれて初めて経験する、圧倒的な孤独。
小さな部屋の狭いベッドの上で、天井を眺め、両手で顔をおおった。
目を閉じると、真っ暗な頭の中に、自分の声だけが響く。
「帰りたい」
「帰っても、社会に馴染めない」
「そんなことを言ってたら、どこでも生きていけない」
「世の中にはもっとつらい人だっているんだ」
「日本の友達と一日だけでいい、飲みに行きたい」
「お母さんに会いたい」
「つらい」
「こんな気持ちを話しても、きっと誰にも理解されない」
「これは甘え」
「甘えでもいい」
「他人はもうどうでもいい」
「ただ、私がつらい」
「シンプルにつらい。それだけ」
初めて聞こえたその声は、真っ暗な穴から聞こえてくるようで。
穴のふちから、恐る恐る中をのぞいてみると、空っぽの世界が広がっていた。
ぽっかりと大きくあいた穴は、きっと昔からそこにあった。
その上に、必死に誰かのことばを重ねていたけれど、結局なにも埋まってはいなかったのだ。
手放そう、と思った。
自分を追い詰める、呪文のように身につけた言葉たちを、時間をかけて剥がしていこう。
私の本当の言葉は、あの空っぽな穴の中からしか、聞こえてこない。
もちろん、耳を澄ますのが怖いときもある。
しかし、迷ったときに聞くべきは、もう誰かのすばらしい言葉じゃない。
私が私の声を聞かなければ、ほかに耳を澄ませてくれる人なんていない。
それに気づいてから、もう無理ができなくなった。
20代の自分が、パンパンに無理していたことに気づき、同じことができなくなった。
たまに、ひどく弱くなってしまったと、感じることがある。
それに、心の声を聞いているつもりだったのに、実は頭が先に走っていて、息切れすることもある。
20代の私が見たら、なんてだらだらと生きて、歩みも遅く、落ち着かない人間かと思うだろう。
しかし、友人に正論を言わなくなっただけ、マシだと思いたい。
空っぽの自分を見つけたら、他人の空っぽにも気づくようになったのだ。
それから、夫と初めて出かけたときのこと。
あのとき、二人で話すのが初めてとは思えないぐらい、すらすらと本当の言葉が出てきた。
だから私は、言ってみた。
「人間は、空っぽな生き物じゃないかな」って。
彼はあっさりとこう答えた。
「もちろんそうだよ。人生に意味なんてない。
だから僕は、自分の時間を、余計なものに費やしたくないんだ。
好きな場所で、好きな文化に触れて、他人を気にすることなく静かに生きたい」
自分の空っぽを見つめている人が、ここにもいた。
人は、自分の中に、何をもってしても埋められないものを持っている。
それを他人が埋めることはできないし、そもそも埋めようとしなくていい。
そのままで。
常に走ることが得意な人がいる。
何かを埋めることで「生きてる」と感じられる人もいる。
本当の自分の声を聞きたくない人も、もちろんいる。
ただ、私は、できるだけ自分の声を聞いて、生きていきたい。
それだけの話です。
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